悪事

 


 

 僕は人生で初めて悪事に手をつけようとした。
 悪事、といっても殺人や詐欺などの重い罪ではない。単なる窃盗だ。もちろん、窃盗も悪いことには変わりないのだけれど、この世の中、生きていくためには仕方のないことなのかもしれない。だから僕は、悪さに手をつけようとしたのだ。
 その日のロンドンは一月の下旬ごろで、肌を切るような寒風がひゅうひゅうと吹き荒れる寒い夜だった。住処を無くした僕は、孤独に路頭をとぼとぼと彷徨っていた。
 すっかり暗くなった空からはしんしんと雪が降ってきた。几帳面に石畳が敷かれた住宅街の路地にはうっすらと雪が積もり、僕の足は指先まで感覚を無くし、手は真っ赤になり悴んでいた。辺りは暗闇が支配し、唯一の光源は等間隔で設置された電灯のみ。その中のいくつかはすでに寿命が近づいているのか、ちかちかと点滅している。少しも温かみを感じさせない明かり。まるで全ての生き物が死滅してしまったかのように静寂が包み込んでいる。その静寂の中では、雪の降る音さえも聞こえてくるように感じられる。空を仰いでみても、やっぱり厚く鉛色の雲が空を覆いつくし、煌く星ひとつ見えなかった。
 突如として前方から、ライトを点けた自動車がやってきて、僕の顔を照らす。一瞬ちらと見えた運転手の顔は、僕を興味も無さそうに一瞥し、虚しいエンジン音と排気ガスを残しあっという間に去っていった。行くあてもないのだし、車に轢かれてしまおうかと思ったけれども、やはり何故だかあと一歩、踏み出せないでいた。どうせ轢かれたからといって、新聞の片隅にも載らないのだろう。
 そんな時に僕はある匂いを嗅ぎつけた。鼻をくすぐるような甘く、高級感のある匂い。三日三晩何も口にしていなかった僕にとって、その匂いを嗅ぐだけで舌なめずりが止まらなかった。僕の嗅覚はおそろいく敏感に働き、全ての匂いを逃がすまいと働く。
 顔を上げてみたのなら、その匂いが発せられているであろう場所がすぐにわかった。とある家から明かりが漏れていたからだ。さっきの電灯とは違い、温かみのある明かり。赤レンガで造られた塀に囲まれたその家は、清潔そうな感じを漂わせていた。ベージュ色の石材。赤茶色のレンガ屋根。中流ほどの生活を送っているんだろう。
 この機を逃せば、それこそ本当にのたれ死んでしまうと思った僕は、その甘く高級な匂いに誘われるがままに塀をよじ登り、庭にたどり着いた。綺麗に雪かきが施され、雪の山はふちに寄せられている。庭で番犬でも飼っていたらどうしようかと思っていたが幸いそれといった気配はなく、飼っていても家の中だろう。
 匂いがするということはどこか開いているところがあるのだろうと考えた僕は、進入口となる入り口を足音を立てずに探した。だが、いくら探しても見つからない。僕の嗅覚がおかしくなってしまったのだろうか、と少し不安になった。しかしそれを疑ってもしょうがないと思った僕は、行く当ても無いのでそれとなく庭に植えられた木に上り、何か進展があることを願い寒さに耐えながらじっと待った。
 だが、いくらまっても家から誰かが出てくることもなく、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていった。周りには相変わらず寒さと暗闇が支配するのみ。
 そのうち空腹や寒さにも嫌になってしまった僕は、むしゃくしゃしながら木から下り、今度こそ死んでしまおうと思った。どうせ生きていてもろくな事がないのだ。衣食住がほとんどまかないきれていない僕にとって、この世に残すものは何もなく、何の躊躇や未練もなしに死ねると思った。
 木から下りようとした僕に声が聞こえたのはその時だった。
「あら、どなた?」
 僕は突然の呼びかけに応答することも出来ず体を強張らせた。全身の毛もよだつとはまさにこの事だろう。
 おそるおそる顔を下に向けてみたら、一匹の黒猫が上を見上げていた。ぎらりと光る黄色い眼。大きく開かれた瞳孔。鼻をひくひくと動かし、尾をゆらゆらと左右に動かしていた。両耳をぴんと立て、全ての音を聞きもらすまいとしている。黒毛に包まれたしなやかでほっそりとした体は月光に照らされて毛の一本一本まで光沢を帯びている。暗闇に見事に溶け込んでいるかのようだ。まるで僕のことをじっくりと観察しているみたいで、不信に満ちた表情をしている。
「僕は怪しいものじゃない」
 とっさに発した言葉は自らを擁護するものだった。しかし、その黒猫は信じられないと言った様子で、
「怪しいに決まってるじゃない。こんなに寒い日の夜に、他人の家の庭にある木の上にいるあなたはどこからどう見ても怪しいわよ」
 それを聞いた僕は、一つの疑問を口にした。
「人の家?」
 するとその黒猫は、後肢に顔を向けて舌で毛繕いをしながら言った。よく見ると、口を動かしていない。どうやら、僕の心に直接問いかけているようだ。
「わたしはね、ここのご主人に飼われているのよ。なかなか立派な方だわ」
 黒猫が人間を評価するのもどうかと僕は思ったが、別のことを口にした。
「不自由なく暮らしているのかい?」
 黒猫は相変わらず毛繕いをしている。綺麗好きなのだろうか。
「そうね、不自由なくよ。毎日のように新作のキャットフードが食べれるもの」
「僕はキャットフードなんて食べたことないな」
「あなた、冗談で言ってるの? もしそうだったら上手くないわよ」
 黒猫は、信じられないという顔をして、やがては眼を細めて僕を睨んだ。それには侮蔑とも威嚇とも言えない独特な表情だった。
「ねえ、ところでなんでそんなところにいるの?」
 もっとも訊かれたくはないことを訊かれた僕は、今度は冷静に答えた。
「行き場がなくてね、ここで途方に暮れているんだよ」
「わたしたちの家に忍び込もうとしてるんじゃなくて?」
 ずばりと言い当てられた僕は答えを返すことに手間取った。どうやら性別による洞察力の違いというものは黒猫にも関係はあるらしい。
「当たりね」
 そういうと黒猫は、その軽々と木の上にのびり、僕の横に座った。しなやかな尾は後肢の後ろに収められた。僕はあまりにも自然でゆらりとしたその動きに見惚れる。
「怪しいと思ったのよ、なんでわざわざ人の家の庭に植えられている木に登るわけ? ただ単に休みたいのであればそこらじゅうに街路樹が植えられているじゃない」
 黒猫の言うとおりだった。石畳の歩道の脇には等間隔に街路樹が植えられているのだから。
「僕はね、君みたいに不自由なく暮らせているわけじゃない。小さいころに交通事故で両親を亡くした。孤児となって家々に引き取られたけど、その全部が決して裕福な家庭ではなかった。存分に食べ物も食べられなかった。それが嫌で逃げ出して、今みたいにこうやって木に登って野宿をしたり、飲食店のゴミを漁ったりして生活しているんだよ」
「それでわたしの家に盗みを働こうとしたわけ?」
 その口調があまりにも優しげなものだったから、僕は至極自然に認めた。黒猫の返事は意外なものだった。
「盗めばいいじゃない」
 僕を見据えた黒猫の両眼は、月光を反射してぎらりと光る。何かを試すような眼。何かをのぞくような眼。何かに好奇心をもったような眼。
「え、でも……」
「誰にも告発なんてしないわよ。面白そうだし」
「面白そうって……」
「あなたみたいに窮地に立たされている子なんてね、なんでもするわよ。少しの悪事を働いたって、生きていくためには仕方がないと思うの。それを咎める必要は無い。そう思わないかしら?」
 そう言った黒猫は、尾をゆらゆらと左右に揺らした。僕は自然とそれを目で追う。しかし、すぐに顔を戻した。
「ところで何を盗む気だったの」
「食料……」
「じゃあちょうど良いわね、私のキャットフードを分けてあげる。これじゃあ盗んだことにもならないでしょう? 私が承認しているもの」
「本当か? しかしキャットフードなんてもの、僕には食べれないな……」
 相変わらず黒猫は尾を揺らしている。
「嘘をついてどうするのよ。それにあなた、キャットフード食べたことないんでしょう。遠慮する必要はないわよ。死んじゃうじゃない。さあ、ついてらっしゃい」
 そう言った黒猫は、木の上から軽々と飛び降りた。僕もそれに続いた。先を歩く黒猫の揺れる尾を見ながら僕は、キャットフードとはどんな味がするのだろう、と楽しみと不安を胸に秘めながら考えていた。
 
 ところがそんな夢も、僕が家の主人に見つかってしまったことにより打ち破られた。
 黒猫の案内により家に侵入した僕は、すぐにその黒猫に裏切られた。黒猫が案内した部屋には、家の主人と思われる中年の男が新聞を読んでソファーに座っていたからだ。すぐに騙された、と悟った僕は、しかし呆気なく捕まってしまった。黒猫はわざと僕をこの部屋におびき寄せたのだ。そうに違いない。僕は、主人の大きな足の後ろに身を潜めた黒猫のほくそ笑む顔を見た。にんまりと不気味に口を広げる。騙されるあなたが悪いのよ、と嘲笑しているかのようだった。血相を変えた主人はただ激怒しながら僕に向かってこう言った。
「俺の家に勝手に入ってくるんじゃない、薄汚い斑猫め!」
 尾をぴんと張らせた僕にはただ、にゃあと鳴き声を上げて逃げる他に残された道は無かった。
 そう、斑猫の僕には――。
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